息子の通う大学では、入学時から授業は対面になったようですが、一つだけオンラインの講義があるそうです。
医療系の各学部が学部の枠を超え、患者さんの視点で考えられる人間形成を目標とし、相互理解さらにはチーム医療への理解を深める講座とのこと。
患者さんや家族の会による体験談を聞き、グループワーキングなどを行うそうです。
先日のLINEで
息子「今日のオンライン講義、昔、小学二年生あたりの時に小学校に来てくれて、悲しくなって泣いたお話をした方が画面越しにお話されていたと思う。」
とありました。
以前は小学校や中学校では年に1度程、
いのちを大切さ
夢に向かって努力することの大切さ
生きる力
などの講演会があったように思います。
体育館へ集まっての講演会はコロナで休止されていることもあるかと思いますが、このようにオンラインによって全国どこでも講演会が可能となったのかもしれません。
それにしても、そんな昔の事をよく覚えているなあと感心しました。
その事を息子に伝えると
息子「身近な人が亡くなる最後の数分を想像して、その時に掛ける言葉を考えながら目を閉じて音楽を聴くって感じやった」
「その数日後『もし地震や津波がきたらハハはどうするの?』って聞いたら、想像してなかった返事だったので悲しくなった事を覚えている」
と返信がありました。
その時の会話は覚えていませんが、私の事なので多分アッサリと
「もしそれでハハが死んだとしたら、その時がハハの寿命だったんだと思う。」
と答えたのだと思います。
「必要な治療は受けるけど、不必要な延命治療はいらんからね。」
とも息子には言ってきたように思います。
この考え方は、私が両親から常々聞いてきたこと。
そんな悲しいこと言わないで!
と思う人もいるでしょうし、私のように
そしたらご希望どおりにさせていただきます。
と思う人もいるでしょう。
どちらも正解・不正解ではないと思います。
けれど、まだ幼かった息子にはちょっとショックだったようです。
息子には
幼い君に悲しい思いをさせて申し訳なかったね。
生きるということに、何が何でもしがみつく人もいれば、
ラクに死ねるのならそっちの方がいい、と考える人もいるし、
生死の考え方は人それぞれあるかと。
とLINEしました。
自分の命を粗末にするのは、もってのほか。
確かに、死を考えることはまだダブ-視されている風潮はあるかと思います。
けれど、『どう生きたいか』『どう死にたいか』を考えて身近な人に伝える事は必要だと思います。
私自身、このコロナ禍直前の2020年2月に原因不明のアナフィラキシーショックで
アカン!このままやったら心臓止まってしまう!
この状況で、何で普通に歩けて普通に話せる?
鈍いのか我慢強いのか分からなけど、あと1時間来るのが遅かったら死んでたよ!
と散々に医師に言われた経験があります。
その時に
命ってホント、いつどうなるかわからんのやなあ。
と思いました。
その後、
『後悔することのない生き方』とはハッキリ言って難しい。
毎日を生きていれば、日々ちょとした後悔は必ずあるものだし。
けれど『今を精一杯生きる』という事はできるかもしれない。
『やりたいことだけをやる』という事ではありません。
当時50歳目前。人生の折り返し地点は過ぎています。
いつどうなるかわからない命を生きるなら、楽しそうな方、後悔のしなさそうな方、あと少し自分が成長できそうな方で生きていこう!
そう考えるようになりました。
退院後、当時高校1年生だった息子に改めて私の死生観を伝えました。
・今後は今を精一杯生きて行こうと思う事。
・必要な治療は受けるけど、やっぱり不必要な延命治療はやめて欲しい事。
・できたらお墓には入れずに樹木葬にして欲しい事。
死生観とは関係ありませんが
・通帳や印鑑、生命保険の証券を保管している場所。
・会社で養老保険と退職金共済を掛けているが、本来その手続きをするハハが死んだらどうなるのか不明なので、しつこいくらいに会社に問い合わせする事。
(いただける物はキッチリといただきます。)
思っている事、伝えておかなれけばならない事を全て話しました。
息子はその時は黙って聞いていましたが、先日のLINEでは
「おかげさまで悲観的になりすぎないような死生観を持てたから問題なし」
とありました。
「君には君の死生観があるだろうし、これから学んだり経験したりするなかで変化することもあるし、ハハにはわからないけれど医療従事者としての必要な死生観があるのかもしれないね。」
とLINEしました。
一個人としての死生観と、医療従事者としての必要で学ぶべき死生観は違うのかもしれません。
いろんな価値観の人と出会って議論し、学んで欲しいと思います。