今週のお題「試験の思い出」。
今まで息子の受験について振り返ってきましたが、お題が「試験の思い出」とあったので、泣きながら帰った自分の大学受験について振り返ってみようと思います。
以前にも書きましたが、私は大学では体育を専攻していました。
受験に際しては実技も実施されます。
1日目が筆記試験で2日目に実技試験がありました。
実技試験は各種の体力測定と専門種目の2種類を受けなければならないので、高校3年生で部活を引退した後も受験勉強と並行して、週に2回程は部活に参加して身体を動かしていました。
専門種目は、高校生の時に行っていたやり投げを選択。
競技成績は大したことはありません。
地元の大会で予選を通過して決勝の8人に残れるかどうか、といったところ。
なのでスポーツ推薦とは無縁の一般受験でした。
体育全般が好きで、運動に関わる仕事がしたいと希望していました。
受験も2泊3日となるので、宿泊用の荷物と通常の筆記試験準備に
ジャージとウインドブレーカー
アップに使うランニングシューズ
体力測定に使う体育館シューズ
やり投げ専用のスパイク
こういった物も必要となりました。
当時はガラガラと引けるキャリーケースはまだ一般的ではなく、大きなスポーツバッグと小さなスポーツバッグの2個分の大荷物を持って、宿泊先に向かいました。
1日目は筆記試験。
無事に終わりました。
2日目の実技試験でトラブル発生。
体育館で体力測定の最終種目、全身持久力を測定するための踏み台昇降を行っている時でした。
中学や高校でやってきた踏み台昇降では、台はそれほど高いと感じたことはなかったのですが、受験で使用された台が身長155センチの私にはとても高く、登るのも降りるのも必死。
途中で左足のふくらはぎの上部に異変を感じました。
次は専門種目の試験があるのでグラウンドに向かいましたが、左足のふくらはぎの痛みは増すばかり。
これはあんまり良くないな…。
そう思いながらやり投げのためのアップを行いました。
右利きの場合、左足は助走からクロスステップして最後で踏込み、助走にブレーキをかける踏み込み足となります。(上部のイラスト参照。)
踏み込みが上手くかからないと、やりを遠くに飛ばすことができません。
その左足の痛みが増してきたので焦りました。
途中離脱=不合格。
ここで絶対に止めるわけにはいきません。
他にも数人、やり投げで受験をする人がいました。
私の順番がきてスタート位置につきました。
不思議と左足の痛みは全く感じませんでした。
ものすごく集中していたのだと思います。
この状態を『火事場の馬鹿力』というのかもしれません。
小雪の舞う空に向かって、規定の3回を投げ終えました。
とりあえず最後まで受験することができたのでホッとしました。
ホッとするのと同時に、左足は踵が地面に付かない状態に…。
どう頑張っても踵を下ろすことができず、激しい痛みが襲ってきました。
ここからが大変。
その状態で大量の荷物を抱え、数時間かけて電車で帰宅しなければなりません。
途中、公衆電話で母親に
「足を痛めたので、帰るのにどれだけ時間がかかるかわからない。」
と連絡しました。
左足を引きずりながら電車に乗り、一度も座ることはできませんでした。
痛みで脂汗を浮かべながら電車に乗っていました。
乗り慣れていない電車に初めての駅。
30年以上も前、エレベーターもエスカレーターも今ほど設置されておらず…。
数回の乗り換えも階段の上り下りは手すりにしがみつきながら、左足はつま先しか地面に付けることができないし、激痛が走るのでゆっくりとしか歩けません。
足が痛いのと、大学受験本番で怪我をしてしまったことが情けないのとで、涙が出てきて止まりませんでした。
端からみたら、大荷物を抱えて泣きながら足を引きずって歩く女子高生はどんなだったのだろう…。
他人の目を気にする余裕はありませんでした。
やっとの事で地元の駅に着き、迎えに来てくれた母親の顔を見るなり、安堵と情けないのと痛いのとで大泣きしてしまいました。
翌日、整形外科に行くと重度の筋断裂(肉離れ)と診断されました。
「ここのとこ、ブチッと切れてるわ。」
レントゲンを見た医師は言いました。
左足は膝の上から足首まで2週間のギプス固定。
受験した大学が最初の受験であり本命でしたが、その後に予定していた滑り止めの大学は受験ができなくなりました。
不合格なら浪人決定。
結果、まだギプスが取れないうちに合格通知が届きました。
受験本番で怪我をしてしまった情けない思いとあの足の痛みは、30年以上過ぎた今でもハッキリと思い出すことができます。
息子の大学受験も山あり谷ありでしたが、私自身の大学受験もなかなか大変な受験だったなあと思い出しました。