1週間入院し、点滴治療をすることになった息子。
点滴治療は1日数回、時間をかけて行われました。
看護師さんが点滴をセットしてくれたり外してくれたりするたびに息子は、
「ありがとうございます。」
とお礼を言っていました。
点滴は夜中にもありました。
昼間は息子自身が注意できますが、夜中は寝ていて無意識に針に触れてしまうことがあるかもしれないので、その間私は寝ずに見守る必要がありました。
夜中に看護師さんが来る頃には息子は夢の中。
けれど寝ぼけまなこで看護師さんに気付いたときには、
「あ…ありが…とう…ござ…い…ます…。」
息子の律儀さに、看護師さんも私も声を殺して笑いました。
入院中も息子の左側の顔の様子は全く変わりません。
日にちが経つにつれ、耳の中にできた水疱と口の中の水疱が無くなってきたくらい。
半分が麻痺しているので食べるのに一苦労でした。
左側からこぼれるので、息子は右側に首を傾げるようにして食べていました。
熱や頭痛、難聴や味覚障害といった他の症状はありません。
暇を持て余していました。
けれどウイルス性の疾患なので外をウロウロすることはできず、病室を出るのは一番最後にしか入れないシャワーの時のみ。
ゲーム機を持っていない息子の暇つぶしにと、当時TVでよく観ていた『イナズマイレブン』や『ドラえもん』の映画のDVDを借りてきたものを観ていました。
息子「家からチャレンジと学校のドリル持ってきて。ヒマやから勉強でもする。」
学校の授業に遅れるのが心配な様子でした。
病室で1人勉強をしていると、看護師さんが
「勉強してるの?賢いなあ。将来はお医者さんかな。笑」
と言ったそう。
その道に進むことになるとは、この時は思ってもみませんでした。
当時の職場ではパートは
「子供の病気や行事で休んでOK!」
と言われていました。
ところがあまりにも色々な面でブラックな会社だったので、パートを採用してもすぐに辞めていきました。
そんな会社に7年在席していた私。
私以外の人がカバーできないような仕事を任される事が多くなっていました。
他のパートさんが子供の病気で休んでも、その仕事は他の人がカバーできるので休んだパートさんの仕事は溜まりません。
ところが私が休むと誰もカバーできないので、机の上は伝票で山のようになりました。
ブラックなので、何年働いても他のパートさんと時給は同じ。
息子の入院前後、2日休んで一度出勤すると、よくこれだけ積めたもんだなとある意味感心するほどの状態に…。
これは毎日、たとえ半日でも出てきて処理をしないと締め日に間に合いません。
息子に言いました。
私「お仕事休んで君に付いてることができなくて。毎日半分だけお仕事行ってもいいかな?」
息子「いいよ。ハハはお仕事頑張って!〇〇はちゃんと点滴して勉強もしてるから!」
私が仕事に行っている間、息子は1人で勉強し、食事も済ませ、後はDVDなどを観ながら過ごしていたそうです。
入院している、まだ7歳の息子にずっと付き添うこともできずに情けなくて涙が出ました。
その後、この事がきっかけとなりこの職場を辞め、『1番大事な仕事は子育て』と言ってくれた今の所に就職しました。
※その辺りの話
日によって午前・午後のどちらかに出勤して馬車馬のように仕事をこなし、夜は病室で点滴を見守りながらの寝泊まり。
体力だけが取り柄の私の気力と体力もさすがに限界を向かえた頃、息子は退院することになりました。
退院するころになっても息子の左半分には麻痺が残ったまま。
退院する少し前に、自分で行うリハビリトレーニング方法が書かれたA4の藁半紙1枚が手渡されたのみ。
地道にリハビリをやるしか改善の方法はないとのこと。
机の上に置くことができて顔がきちんと映る大きめの鏡を買ってきました。
鏡を見ながら朝・昼・夜とリハビリが始まりました。
大きな鏡でまじまじと自分の顔を見た息子。
この時、初めて自分の顔をきちんと見たのだと思います。
息子「○○の顔、こんなになっちゃったの?元に戻る?」
大丈夫。元に戻るよ。
その言葉をかけることはできませんでした。
息子には正直に話しました。
○10人いたら6人ぐらいは良くなるかもしれないという病気であること。
○まだまだ若いので、良くなる可能性はあると医師に言われたこと。
○そのためには、このリハビリを頑張るしかないのだということ。
息子はリハビリの方法が書かれた藁半紙と鏡を見ながらリハビリに取り組みました。
けれど、顔の左半分はピクリとも動かないまま、退院しました。