1995年1月17日。
当時私は大学4年生でした。
1人暮らしの1Rマンションで、卒論に追われる日々を過ごしていました。
ぐっすりと眠っていた早朝。
ベッドの上で、ものすごい衝撃を感じました。
これは何だ?
1階の端だった部屋の壁が、大きく波打っているのが見えました。
布団の中から全く動くことができないほどの、激しい衝撃がしばらく続きました。
震度7。
地震は縦揺れ・横揺れがあると言いますが震度7にもなると、ただただ激しい衝撃しかありません。
何かわからない衝撃が収まり、部屋の状況を確認するために電気をつけようとしましたが、電気はつきません。
ガス(都市ガス)も止まり水道も出ません。
家にあった固定電話も繋がりません。
携帯電話もまだ普及していなかった時代。
今なら即座にスマホで情報を得ることができますが、電気が通じていないのでTVもラジカセも使えない。
携帯ラジオなんて持っていないし、とにかく何が起こったのかがわからない。
とりあえず、散乱した部屋から外に出てみました。
すると、私が住むマンションの向かいに建っていた文化住宅が倒壊していました。
そこから見える範囲でも、数件の家が元の形を成していませんでした。
この光景を見て、とんでもない地震が起きたことを理解しました。
その倒壊した文化住宅では2名の方がお亡くなりになったと、後に知りました。
私の部屋が1階だったためなのか1人暮らし用の小さい物だったためなのか、冷蔵庫や食器棚が倒れたり中の物が飛び出すことはありませんでした。
部屋は小物が散乱した程度。
被害としては、ユニットバスに置いていたガラスのコップが落ちて割れただけで済みました。
外が明るくなるのを待って、街の状況を確認するためと公衆電話を探すために自転車で街を走りました。
固定電話が繋がらず、親が心配しているに違いないと思ったのです。
倒壊している建物、傾いている家が点在する街を走り抜け、公衆電話を見つけては受話器を取りました。
受話器を取っても発信音が聞こえません。
数か所目でやっと発信音がして、実家に連絡することができました。
無事を伝えると、電話の向こうの母親は声を上げて泣いていました。
部屋に戻り、どうしようかと考えました。
たまたまその数日前に、2リットルのペットボトルの水を1ケース購入していたので飲み水はありました。
この水の存在は、とても心強いものでした。
けれど、いわゆる生活用水はありません。
掃除用のバケツを手に取り、向かいの倒壊した文化住宅に繋がっていたと思われる破損した水道管から溢れ出す水を汲みに行き、ユニットバスの浴槽に溜めました。
この状況の中、1人で何とかしなければならない。
倒れた建物を横目に心を無にして、何度も往復しました。
その日の夜。
懐中電灯もなく真っ暗。
倒壊した家々のガス管が破損しているためか、辺りはガスの匂いがしたので唯一家にあったアロマキャンドルを付けることはできません。
しばらくすると、突然パッと部屋の灯りがつきました。
電気が復旧しました。
そのおかげで炬燵で暖を取り、電気ポットでお湯を沸かして温かい飲み物を飲むことができました。
とりあえず家にあったパンやお菓子で空腹を満たしながらTVをつけてみると、信じがたい光景が次々と目に飛び込んできて身体が震えました。
余震が続く中、TVで改めて目にした光景に恐怖を感じ、一睡もできずに翌朝になりました。
地震発生から2日目。
バケツを持って外に出ましたが、溢れ出ていた水は止まっていました。
けれど、あちこちの家で井戸水が開放されていたので汲ませていただき、生活用水を得ることができました。
困ったのが食べる物。
1人暮らしの大学生。
そんなに買い置きはありません。
カップ麺すらありませんでした…。
自転車で街のスーパーやコンビニを周りましたが、すでに商品棚は全て空っぽ。
何も残っていない。
そこで、被害の大きかった地域とは逆方向の隣市に向かって自転車を走らせました。
地図も、もちろんスマホもなし。
途中にあったスーパーやコンビニに寄りながら、大きな道沿いをひたすら走るのみ。
自転車で30分も走ると、私が住む街からたった10キロほどしか離れていないのに、見た感じではあんな地震があったと思えない変わらない日常がそこにはあり、とても驚きました。
隣市のスーパーも私と同じように考えた人が買い物に来るのか、なかなか調理なしで食べられる物を見つけることができませんでした。
数件目に入ったスーパーの棚に、ポツンと1袋の『サ○ウの切り餅』を見つけました。
電気だけは復旧したので、オーブントースターを使うことができます。
この『サ○ウの切り餅』のおかげで食いつなぐことができました。
その日の夜は電気ポットでお湯を沸かし、身体を拭きました。
地震発生から3日目。
早くも、被害が比較的少ない地域まで電車が開通しているとの情報をTVで知りました。
荷物をまとめて電車が来ている駅まで歩き、実家に戻ることにしました。
以上が私が29年前に体験した、阪神・淡路大震災です。
たったの3日間。
けれど1人で奮闘したこの体験は、決して忘れることができません。
そして地震の報道を目にする度に、この3日間の事が思い出されて胸が少し苦しくなります。
今、私ができる事は何か?
ある程度の備えは必要だと感じてもらうため、この体験を伝える事だと考えました。
能登半島では、今なお多くの方が避難生活を余儀なくされています。
被災地の1日も早い復旧・復興と、被災された方々の平穏に暮らせる日が戻る事をお祈りしています。