shanの雑日記

子育ての振り返りから日々の雑感など

差別と区別

先日のお昼休み中、ボーッとスマホでネット記事を読んでいました。

『バレーボール』の文字でふと目に止まった記事。

カナダ女子大学バレーボール大会で、A大学には3人B大学には2人の髪を束ねた男性に見えるトランスジェンダー選手が出場し、途中交代もなくフル出場して圧倒的なパワーを見せた一方、一部女子選手は出場機会も得られず、ベンチに座っていた。

しかも、A大学の1人は2022ー2023年のシーズンには男子バレーボールチームに所属し、この1年間の間に『性転換』して女子選手として登録されており、大学体育協会に所属しているトランスジェンダー選手の6人中5人はホルモン治療や外科的手術を受けていない。

との事。

今、自認している性を尊重していこうという風潮ができつつありますが、そうなるとこういった問題はあちらこちらで増えてくるように思います。

 

そもそもスポーツ競技で男女が分けられているのは、生物学的に歴然とした身体能力の差や体格の差があるからだと思います。

どんなに『女性の心』を持っていたとしても身体能力的には男性なので、パワーもスピードも圧倒的に違いがあります。

 

記事にもありましたが、実際にトランスジェンダー選手によるスパイクが相手女子選手の頭に当たってケガをした事例もあるらしい…。

いやもう、恐怖でしかない。

私が楽しんでいるソフトバレーは、男女2人ずつ4人で1チームの構成。

そうなると、もちろん相手チームの男性のスパイクを受けることになります。

今まで除け損ねて何度も頭でレシーブをしたことはありますが、いくらボールがゴム製とはいえ、めちゃくちゃ痛い。

特に初心者で技術のないパワーだけの若い男性になると、力任せに打ち込んでくるのでレシーブなんて無理。

ひたすら頭を抱えて防御します。

果敢にレシーブに行こうとすると、ケガをする予感しかない…。

やはり男性のスパイクの威力は女性のものとは比較になりません。

それだけ明らかに男女差というものがあります。

こうなると『平等』とは、どういう事になるのだろう?

トランスジェンダー選手の出場によって、体格や体力差で優劣のつく競技の『女子』の大会で一部の女性選手の出場機会を奪われる場合が増えると、それは女性選手にとって『平等』だと言えるのでしょうか?

すべての選手に平等とするならば、『男性』『女性』『トランスジェンダー(元男性)』『トランスジェンダー(元女性)』の区分なんかを考える必要も出てくるかと思います。

そうなると、トランスジェンダー側には『差別』されていると感じることになるのでしょうか?

私はLGBTQに関して詳しいことは分らないし、意識が高い方でもない。

それどころか批判覚悟で本音を言うならば、トランスジェンダー(元男性)の方が「心は女性だから」というだけで、男性にしか見えないのに温泉や公衆トイレに入ってこられたくはありません。

これは女性に生まれ、女性として生きてきた本能だと思います。

 

こういった問題も含め、それが『差別』になるのか『生物学的かつ合理的な区別』になるのか。

学校生活や就労等、日常生活において苦痛や負担を伴う『差別』はもちろんいけないことだと思います。

けれど『性別の多様性を認めて欲しいと願う事』と『すべてにおいて平等を求める事』とは根本的に違うはずで、一緒くたに要求するものではないかと…。

そう考える私は今の時代において、やっぱり意識低い系なのかもしれません。

けれど、生物学的には明らかな男女の違いがあります。

そうなると『合理的な区別』は今後、あらゆる場面において必要であり重要になると思います。

 

『バレーボール』の文字に目が止まっただけなのに、何だか色々と考えてしまったお昼休みとなりました。