shanの雑日記

子育ての振り返りから日々の雑感など

いつまで積雪を喜ぶのか?

パートナーとのドライブ中での会話の中で、10年に一度と言われたこの前の大寒波の話になりました。

 

※その辺りの話はこちら

shanru.hatenablog.com

 

この辺りでも、1月25日の水曜日には数年ぶりに雪が降り積もりました。

雪は前日の火曜日の夜から降り始めたのですが、降り始めからしばらくすると外からワーワーキャーキャーと騒ぐ声が。

雪に大喜びした小学生の姪と甥が畑で遊んでいました。

その話をパートナーにすると、

パ「ウチの向かいの小学生もちょっと積もり出した頃から外でキャーキャー言って喜んでたわ。」

 「K(娘:19才)に『お前は外で遊ばないのか?』って聞いたら、何歳やと思ってるんや!って怒られた。笑」

そらそうでしょ。

女子が積雪で喜ぶのは小学生ぐらいまでかと。

中学生でもギリギリ喜んで遊ぶかな?

私が中学生の時、先日以上に雪が積もったことがありました。

当時、担任の体育の先生の授業があり、その日の授業は急遽『雪合戦大会』となりました。

持久走が雪合戦に変更になったので、みんな大喜び!

男女ごっちゃになって雪合戦をした思い出があります。

ところが高校生になってからの積雪は登下校や部活の邪魔でしかなかったので、女子が雪で喜ぶ境界線はそのぐらいかと。(個人的主観。)

この頃になると、しょうもない事でワチャワチャと騒ぐ同級生の男子達を

「フンッ。男子はホント子供。」

と冷めた目線で見るパターンかもしれません。笑

若い頃はこういう男子を頼りなく思ったものですが、男子のそういう幼さが可愛いなあと思うのは、母親あるあるなのかアラフィフあるあるなのか?

 

女子に比べて男子はいつまで積雪を喜ぶのか?

と言う話になりました。

雪が積もった水曜日。

仕事の帰り道にある児童公園で、帰宅途中の男子中学生数人が直径約1m近くはありそうな雪の大玉を楽しそうに作っていました。

男子中学生、普通に喜んで遊ぶでしょう。

高校生は?

それぞれに男子がいる2人の見解は一致。

男子高校生は、まだまだ大喜びする。笑

息子は非常にクールなので、中学生の頃から雪は通学や部活の邪魔になると考えていましたが、雪の日に話してくれる『雪で遊ぶ同級生男子の面白話』にお腹を抱えて大笑いしました。

 

そういえば、とパートナー。

数年前にたくさん積もった時、会社から早く帰宅するように言われてみんな帰ったけれど、若い子達(20代前半~後半)が帰らずに空き地で雪遊びをしていて、偉いさんから『はよ帰れ〜!君達は小学生か!』って怒られてた。

との事。笑

 

うーん。

男子はいつまで雪を喜ぶのかな?

1人でいる時は興味のないフリをしていても、複数人いれば遊びだす。

それが20代男子かもしれません。

 

雪遊びではありませんが、息子大学の息子クラブでは寒い日の部活では『おにごっこ』をしているらしい。

「おにごっこ、しようかあ。」

と先輩が誘ってくるのだそう。笑

クールな息子は

「はあ?この歳でまだおにごっこするの??」

と思うらしいのですが、先輩からのお誘いを断ることはできず。

大学1年生~5年生(19才~20代半ば)の男子達。

ワーワー言いながら、グラウンドを駆け回っているそうです。

大学生男子はまだまだ子供ですね。(息子クラブだけ?)

この人達はきっと雪でも大喜びするでしょう。笑

 

そうすると、雪で喜ぶのは20代ぐらいまでかな?

けれど、1人の時は雪に興味のない大人を装っていても子供と一緒に公園に行き、喜んで大きな雪だるまを作り出す30代パパもいそう…。

で、奥さんに

「どっちが子供や?」

と呆れられるパターンもあるかも。

そう言うと、パートナーは笑っていました。

さては、やった経験あり?笑

ちなみに現在(40代半ば)は

「雪は鬱陶しいだけ。寒いし。いろいろ大変。」

さすがに40代には寒さが身にしみるし、いろいろな事が面倒になるようです。

 

『男子はいつまでも幼い』と締めくくろうとしましたが、ふと思い出しました。

2014年。当時私は41歳。

雪と折れてしまった枝などを使って喜んで雪だるまを作っていました…。

『童心に帰った』という事にしておきたいと思います。笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アラフィフが楽しんだ水族館

週末、久しぶりにパートナーと遠出をしました。

秋の京都以来になります。

 

※その辺りの話はこちら

shanru.hatenablog.com

 

shanru.hatenablog.com

 

今回は日帰りです。

パートナーが会社の同僚から聞いて行ってみたいと思った所があるとのこと。

和歌山にある『エビとカニの水族館』。

そう言えばTVか何かで観たことがあるような気がします。

確か、エビとカニに特化した水族館だとか。

面白そうなので行ってみることにしました。

 

すさみICを降りてすぐの『道の駅すさみ』に併設されているそうです。

パートナーいわく、足湯もあると聞いたとか。

それは楽しみだとタオルを持参で出発しました。

 

道中はもちろん、パートナーの運転です。

私はまた助手席で喋っていました。

※その辺りの話はこちら

shanru.hatenablog.com

自分が運転する時は眠くなることはありません。

ハンドルを握るとシャキっとします。

特に高速道路は睡魔どころか、肩が凝るくらいに緊張します。

ところが助手席に座って高速道路を進んでいると、あっという間に睡魔が…。

運転してくれるパートナーに申し訳ないので、睡魔が襲ってきても何とか頑張って起きています。

とにかく何か喋っていないと寝てしまいそうになりました。

 

そう言えば、子供達が小さい頃に一緒に1泊2日で白浜に行ったなあという話になりました。

アドベンチャーワールドではパンダが目の前の手が届きそうなところにいて、私が大喜びしました。笑

その時の写真が1枚だけ携帯に残っていました。(2012年撮影)

パンダって良いですよね。

その存在、ちょっとした動きを見ているだけで癒されます。

子供達がジェットコースターに2回連続で乗っている時、子供達はパートナーに任せて1人パンダの前から動きませんでした。笑

 

今回、目指すはすさみ。

ICを降りるとすぐに『道の駅すさみ』はありました。

まずは道の駅で昼食。

エビとカニの水族館は道の駅に併設されています。

(外観の写真を撮るのを忘れました…。)

入館料、大人800円を支払って中に入ります。

入ってすぐの所に展示されていたのがこちら。

チンアナゴです。

初めて実物を見ましたが、TVで観るようにユラユラと揺れていました。

 

いろいろなエビとカニがいました。

印象に残ったカニ達。(以下名前は覚えていません…。)

綺麗な桜色のカニ

猛毒があるそうです。

カメラ目線バッチリ!ポーズも決まっています。笑

 

 

 

こちらは色鮮やかなヤドカリの仲間。

殻の中がどうなっているか観察できるように、透明な殻に入っています。

パ「これって、裸を見られてる感じかな?恥ずかしいやろうなあ。」

私「ヤドカリ的には落ち着かない気持ちかもしれないね。」

2人で笑いました。

 

クラゲもありました。

フワフワと漂っていました。

家に欲しいと思いましたが、お手入れが大変そう…。

 

こちらは『生きている化石』と呼ばれるアメリカブトガニです。

この水族館ではこの『生きている化石』のカブトガニを触ることができます!

おっかなびっくり、人差し指で突っついてみました。

想定どおりの固さでした。笑

またこちらでは2020年3月、カブトガニの孵化に成功したとのことです。

あと、タカアシガニも突っつきました。

こちらも想定どおりの固さ。

 

最後にペンギンもいました。

手前の子はちょっと眠そうです。

 

『エビとカニの水族館』というのでエビとカニしかいないのかなあと思っていましたが、他にもウミガメやウツボ、なぜかサソリやクモなども展示されていました。

エビは1センチ位の小さいものが多く、老眼の2人では見つけるのが大変。

『○○エビを探せ!』と地味に盛り上がりました。

おじさんとおばさんが何をしてるんだか。笑

 

アットホームな感じでこじんまりとしていて、何周回ってもOK。

一般的な水族館にあるような大水槽はありません。

この日はたまたまなのか、子供連れよりも同じような年代の方々が多く見られました。

正直そんなに期待はしていませんでしたが、いい歳をした大人でも充分に楽しむことができました。

 

出口の所では入館時にもらった抽選券で期間限定のお楽しみ抽選がありました。

特賞はなんと『活イセエビ』!

私はエビは食べられないので、当たったらパートナーに権利を譲る気でくじを引きました。

結果は…。

缶バッジでした。

くじ運は見事にない方なのでこんなもんです。笑

 

さて、タオルを持参でお楽しみにしていた足湯ですが『道の駅すさみ』にはありませんでした…。

どうやらパートナーの聞き間違いだったみたい…。

まあ、仕方ないです。

きちんと調べもせずに期待値だけ上げた私のミス。

 

その後、道の駅でブラブラとお土産物を見たりお茶をして、ひと息つきました。

帰りに海岸に行ってみる予定でしたが、この日は風が強くて遠くから見ても白波が立っていたので帰ることにしました。

冬の海の寒さには耐えられません。

アラフィフに無理は禁物。

 

帰りは白浜からの渋滞を心配して早い目に出ましたが、夏場の激混みシーズンでもないのでスムーズに車は進みました。

 

今回、足湯が残念だったので今度は日帰り温泉にでも行こうという話になりました。

それはそれで楽しみが1つ増えたと思うことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフレ特別手当

最近、スーパーに行くと本当にいろいろな物の値段が高くなっていることに驚きます。

1人暮らしの息子は電気代が先月は3,000円台だったのが、今月は5,000円台になったとぼやいています。

そんな中、少し前にユニクロを展開するファーストリテイリングが国内勤務正社員を対象に年収が最大40%、平均して15%もアップするとニュースで知りました。

また今年の春闘では『連合』としては

物価高で生活は苦しく実質賃金が持続的に上がる経済に変えていくべきだ

と訴え、基本給を引き上げる『ベースアップ』の部分と定期昇給分とを合わせて5%の引き上げを求めています。

一方『経団連』の方は

物価動向を重視し企業の社会的な責務として賃上げの積極的な対応を呼びかける

として、『ベースアップ』を幅広い企業に対して前向きに検討するよう求めています。

けれど、これはほんの一部の大企業の話。

労働者の7割を占める中小企業には現実的ではありません。

 

基本給を上げると将来的にも人件費のコストの上昇が続きます。

基本給を上げると下げることはものすごく難しい。

会社側の一方的な『不利益変更』は違法。

労働者の合意や、不利益変更に合理性があり周知されてる等がなければ基本給は下げることはできません。

労働者も一度上がった基本給が下がるなんて、なかなか納得できるものではなく。

これ、私が入社して間もない頃に会社の業績悪化に伴い行った事があります。

ものすごーく大変でした…。

 

そんな中、1月に入ってすぐの頃にウチの社長が言いました。

「従業員に物価高対策として期間限定で基本給を上げようと思ってる。」

なんと!

ウチの会社にそんな発想があったのか!

とまあ、一従業員としては一瞬だけ嬉しく思いました。

ただ先にも書いたように、期間限定としても一度基本給を上げてしまえば下げることは、ものすごーく大変。(現社長は以前の事は知りません。)

その事を社長に告げると、今度は交通費に上乗せさせようと言いました。

交通費には『非課税限度額』があります。

例:自動車や自転車などの交通用具を使用している人に支給する通勤手当

  通勤距離が片道2キロメートル以上10キロメートル未満→4,200円

私は片道約3キロなので、交通費に上乗せされると限度額を超えてしまいます。

それなら別に『手当』とするのはどうかと提案し、社会保険労務士と税理士に聞いてみると社長に言いました。

 

まずは社会保険労務士

「交通費に上乗せしてる会社は他にもあるよ~。交通費にしろ手当にしろ、どのみち3ヶ月後には月変(社会保険月額変更届)は必要だからね~。5,000円でも標準報酬月額が上がれば社会保険料も上がるからね~。」

次に税理士事務所の担当

「もし監査が入った時、一定期間の交通費の上下動を不審に思われてバレたら所得税の計算し直し等が必要になる!それがきっかけで税務署は他にも突っ込みどころを探そうとする!それは面倒なので『手当』として始めから所得税を払っておいた方がマシ!5,000円なら所得税も大したことない!ぜひ『手当』で!」

との事。

これを聞いて、あとあと面倒になる事は避けたい私の心は『手当』一択。

社長にも労務士と税理士事務所の担当の話を伝え、『インフレ特別手当』とすることに決まりました。

1人月額5,000円(1年間)。

5,000円。

ありがたいです。

月々の雇用保険料は上がり所得税も上がりますが…。

けれど、もし3ヶ月が経過して社会保険料が上がってもそれは私の責任でも給料計算の間違いでもないことを、従業員さんに知っていただきたい。(たまにクレームあり。)

私ができることは、きちんと給料計算して後は標準報酬月額が超えないことを願うのみ。

あと、所得が増えれば来年の住民税も上がるかも…。

トータルで実際はどれだけプラスになるのか、ホントに不明。

事はそう簡単でもなく、単なる給料計算担当者の偏った見方かもですが、

政府が賃上げを要求するのは、個人消費者のためではなくて社会保険料等の税収アップを目論んでいるのか?

電卓を叩いて給料計算をしながらそんな事を考えてしまいました。

 

せっかくの5,000円ですが、結局はいくらも手元には届かないのだろうなあと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃりン子チエ』で小学生時代を思い出す

先日、パートナーとお茶をしていた時の会話の中で、何の話の流れからか『じゃりン子チエ』の話になりました。

1981年に高畑勲監督で映画化され、その後TVアニメとして放送されたこともあります。

 

<『じゃりン子チエ』のあらすじ>

主人公、竹本チエは小学5年生。ろくに働きもせず、ケンカと博打に明け暮れる父親と大阪で暮らす。母親はそんな父親に愛想を尽かして家出。個性豊かな人々に囲まれ、ホルモン屋「チエちゃん」を1人で切り盛りしている。父親が巻き起こす様々な騒動に巻き込まれ「ウチは日本一不幸な少女や!」と言いながらも、たくましく生きている…。

 

父親は仕事もせず、娘の稼ぎで生活。

殴り合いのケンカはするし博打もする。

母親はそんな環境の中、娘を置いて出て行くし。(後に帰ってきます。)

ホルモン屋は夜遅くまで営業。もちろんお酒の提供あり。

父親の恩師である元教師が、小学生に飲酒をすすめる場面もあり。

なかなかハッキリと書きにくい方々が出てくることも…。

 

ヤングケアラー

恐喝

暴力

児童労働

未成年飲酒

今の時代、様々な問題に引っかかりそうです。

パ「今の時代では完全にアウトやな。」

私「TV放送は無理かなあ。」

動画配信サービスで観ることは可能のようですが、TV放送はコンプライアンス的に難しい内容だと思います。

※調べてみると、2021年3月にサンテレビで再放送されたそうです。

 

そんなハチャメチャな物語ですが、私は同級生が『なかよし』や『りぼん』を読んでいた小学生時代に『じゃりン子チエ』の漫画を読んでいました。

当時、我が家は父親が単身赴任中で母親は3交代制の看護師。

母親が夜勤で不在の時、それまでは同居していた父方の祖父が私達姉妹の面倒を見てくれていましたが、私が5年生の時に亡くなりました。

夜勤の時の夕食はカレーやシチュー、おでんなどの温めたら食べられるものを用意しておいてくれたので、それらを温め直し器に入れて妹と2人で食べました。

当時はまだ電子レンジはありません。

※その辺りの話はこちら

 

shanru.hatenablog.com

 

その後はお風呂の準備や、小学校が制服だったのでブラウスなどのアイロンがけ。

目覚まし時計を2つ用意して朝は起きていました。

朝食の準備をして妹と供に食べ、登校します。

小学2年生の妹はほぼ役には立ちません。

当時は借家に住んでいたのですが、祖父が昔に商売をしていた関係でやたらと広く、私が生まれる前から『開かずの間』になった数部屋とそれらに通じる『通らずの階段』もありました。

母親が夜勤で不在の時、夜はそれらの存在が不気味でものすごく怖かった記憶があります。

少しの物音で起きていました。

未だにその家の夢を見ることがあります。

 

そんな時に出会ったのが『じゃりン子チエ』の漫画。

小学5年生の女の子が親を養い、様々なトラブルにも逃げることなく時には両手に下駄を持って立ち向かいます。

ウチがしっかりせなアカンのや!

というチエちゃんの姿勢に、どこか自分を重ね合わせていたのかもしれません。

もちろん私は両親に養われており、チエちゃんのような過酷な環境ではありませんでしたが、どこかで

私がしっかりせなこの家は回らんのや!

と思っていた部分があり、お小遣いを手に本屋さんに行って『じゃりン子チエ』の単行本を買い、夢中で読んでいました。

 

私が中学に進学するタイミングで、娘2人だけで夜を過ごさせる事を心配し、母方の祖父母が近くに住む今の土地に引っ越すことになりました。

いざという時、頼れる人が近くにいる。

という事は、絶大な安心感に繋がりました。

中学生になって、勉強や部活に忙しくなったのと近くに本屋さんがなかった事もあり、新たに単行本を買うことはなくなりました。

たまに読み返すことはありましたが、小学生の頃の『共感』を得ることはなくなっていました。

近くに頼れる人ができたという環境の変化によって、かつての

私がしっかりせなこの家は回らんのや!

という気持ちが薄らいだのだと思います。

 

あの当時は1人で懸命に頑張っていたのだという思いしかなく、夜間に小学生の娘2人を置いて仕事に行かなければならなかった親の気持ちはわかりませんでした。

自分が親となり、それがどんなに辛いことか、どんなに心配した事かと思い至るようになりました。

 

帰宅して単行本を探しましたが、捨ててしまっていたようで見つかりませんでした。

おそらく、今の私が『じゃりン子チエ』の漫画を読んでもやっぱり共感することはないかと思います。

けれど小学生だった私の心の支えになってくれた『じゃりン子チエ』には本当に感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【今週のお題】火事場の馬鹿力を発揮した大学受験

今週のお題「試験の思い出」。

今まで息子の受験について振り返ってきましたが、お題が「試験の思い出」とあったので、泣きながら帰った自分の大学受験について振り返ってみようと思います。

 

以前にも書きましたが、私は大学では体育を専攻していました。

受験に際しては実技も実施されます。

1日目が筆記試験で2日目に実技試験がありました。

実技試験は各種の体力測定と専門種目の2種類を受けなければならないので、高校3年生で部活を引退した後も受験勉強と並行して、週に2回程は部活に参加して身体を動かしていました。

専門種目は、高校生の時に行っていたやり投げを選択。

競技成績は大したことはありません。

地元の大会で予選を通過して決勝の8人に残れるかどうか、といったところ。

なのでスポーツ推薦とは無縁の一般受験でした。

体育全般が好きで、運動に関わる仕事がしたいと希望していました。

 

受験も2泊3日となるので、宿泊用の荷物と通常の筆記試験準備に

ジャージとウインドブレーカー

アップに使うランニングシューズ

体力測定に使う体育館シューズ

やり投げ専用のスパイク

こういった物も必要となりました。

当時はガラガラと引けるキャリーケースはまだ一般的ではなく、大きなスポーツバッグと小さなスポーツバッグの2個分の大荷物を持って、宿泊先に向かいました。

 

1日目は筆記試験。

無事に終わりました。

2日目の実技試験でトラブル発生。

体育館で体力測定の最終種目、全身持久力を測定するための踏み台昇降を行っている時でした。

中学や高校でやってきた踏み台昇降では、台はそれほど高いと感じたことはなかったのですが、受験で使用された台が身長155センチの私にはとても高く、登るのも降りるのも必死。

途中で左足のふくらはぎの上部に異変を感じました。

次は専門種目の試験があるのでグラウンドに向かいましたが、左足のふくらはぎの痛みは増すばかり。

これはあんまり良くないな…。

そう思いながらやり投げのためのアップを行いました。

 

右利きの場合、左足は助走からクロスステップして最後で踏込み、助走にブレーキをかける踏み込み足となります。(上部のイラスト参照。)

踏み込みが上手くかからないと、やりを遠くに飛ばすことができません。

その左足の痛みが増してきたので焦りました。

途中離脱=不合格。

ここで絶対に止めるわけにはいきません。

 

他にも数人、やり投げで受験をする人がいました。

私の順番がきてスタート位置につきました。

不思議と左足の痛みは全く感じませんでした。

ものすごく集中していたのだと思います。

この状態を『火事場の馬鹿力』というのかもしれません。

小雪の舞う空に向かって、規定の3回を投げ終えました。

 

とりあえず最後まで受験することができたのでホッとしました。

ホッとするのと同時に、左足は踵が地面に付かない状態に…。

どう頑張っても踵を下ろすことができず、激しい痛みが襲ってきました。

ここからが大変。

その状態で大量の荷物を抱え、数時間かけて電車で帰宅しなければなりません。

途中、公衆電話で母親に

「足を痛めたので、帰るのにどれだけ時間がかかるかわからない。」

と連絡しました。

 

左足を引きずりながら電車に乗り、一度も座ることはできませんでした。

痛みで脂汗を浮かべながら電車に乗っていました。

乗り慣れていない電車に初めての駅。

30年以上も前、エレベーターもエスカレーターも今ほど設置されておらず…。

数回の乗り換えも階段の上り下りは手すりにしがみつきながら、左足はつま先しか地面に付けることができないし、激痛が走るのでゆっくりとしか歩けません。

足が痛いのと、大学受験本番で怪我をしてしまったことが情けないのとで、涙が出てきて止まりませんでした。

端からみたら、大荷物を抱えて泣きながら足を引きずって歩く女子高生はどんなだったのだろう…。

他人の目を気にする余裕はありませんでした。

やっとの事で地元の駅に着き、迎えに来てくれた母親の顔を見るなり、安堵と情けないのと痛いのとで大泣きしてしまいました。

 

翌日、整形外科に行くと重度の筋断裂(肉離れ)と診断されました。

「ここのとこ、ブチッと切れてるわ。」

レントゲンを見た医師は言いました。

左足は膝の上から足首まで2週間のギプス固定。

受験した大学が最初の受験であり本命でしたが、その後に予定していた滑り止めの大学は受験ができなくなりました。

不合格なら浪人決定。

結果、まだギプスが取れないうちに合格通知が届きました。

 

受験本番で怪我をしてしまった情けない思いとあの足の痛みは、30年以上過ぎた今でもハッキリと思い出すことができます。

息子の大学受験も山あり谷ありでしたが、私自身の大学受験もなかなか大変な受験だったなあと思い出しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今なお役立つ【おかあさんといっしょ】

1月も半ばを過ぎましたが、この年末年始に帰省していた息子とはゆっくりといろいろな話をすることができました。

息子「昨年はお正月なんてあったっけ?」

  「箱根駅伝でA君の応援をした記憶しかない。」

とのこと。

※その辺りの話はこちら

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苦しかった頃の記憶は忘却の彼方、といったところでしょうか?

 

そんな息子にちょっと気になっていたアルバイトの事について聞いてみました。

息子は7月頃から、家庭教師と塾の助手のアルバイトを始めました。

※家庭教師についてはこちら

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T君はちょっと逃げ腰になっていた数学も

「はあ・・・。」

とため息をつきながらも、頑張って取り組むようになってきたそうです。

 

同時期に始めた塾の助手。

中学生がメインで、塾長が1人で指導している個人塾だそうです。

息子「塾長はパワーと情熱の塊。ちょっと変わってるけどね。」

パワーと情熱があるからこそ30年以上も個人塾ができるのだと思います。

『ちょっと変わっている』ぐらいは普通かと。笑

息子を含め、数人の医学部生はその助手という立ち位置。

授業中に同席し、生徒の質問に答えるのが仕事だそうです。

その熱血塾長から言われることは以下の4つ。

①答えは教えない

②質問に答えるのは1人5分以内で

③積極的に質問をする生徒以上に、自分から質問をしない生徒に気を配る

④明るく元気よく、テンションを上げて生徒と接するように

 

上記で息子を悩ませたのは③と④。

③については、授業中に様子を見ながら問題を解き進められていない生徒に対し、

最初の頃

息子「わからないところはない?」

と聞くと

生徒「ないです…。」

で終わてしまうことが多かったそう。

最近

息子「何か、困っていない?」

生徒「あ、大丈夫です…。」

少し時間をおいてもう一度

息子「そこのとこ、一緒に考えてみない?」

と声をかけると、大体はコクンとうなずいてくれるそうです。

 

『わからない』と手を上げるのには勇気が必要な生徒もいるでしょう。

恥ずかしいという思いや、『わからない』を認めたくないという思い。

けれど困っているのは確かなはず。

息子「その辺りをね、上手くもっていくのがなかなか大変なわけ。」

  「けどね、みんな『わかった!』って時の顔がね、いい顔になるのよ。」

息子なりに試行錯誤しながらも、やりがいを感じているようです。

息子「塾長、多分理科が苦手やわ。必ず理科の授業には助手が配置されてる。」

  「数・英の質問は答えてるけど、理科はほぼ○○先生へって振るし。笑」

授業中の助手だけでなく、定期テスト前の自習室にも質問対応として配置されることがあるそうで、

息子「数・英・理科とランダムに質問がくるから頭の切り替えが大変。」

  「この前、日本史の質問に来た生徒がいて、メチャクチャ焦ったし。」

私 「日本史で質問なんてあるの?教科書か資料集を見ればよくない?」

息子「だから一緒になって教科書と資料集から探した。日本史はわからん。笑」

中学生の時、興味のない事はなかなか覚えられない息子は日本史の年号が覚えられず、毎晩、年号の暗記に付き合わされた記憶があります。

おかけで当時は私もいくつか年号を覚えました。笑

 

息子いわく、最も大変だったのは④。

家では明るく陽気に歌って踊っての息子ですが、外ではそんな気配は微塵も出しません。

感情を素直に表に出すことはちょっとカッコ悪い、と思っているフシあり。

そんな息子にとって、『テンション上げて』というのが難しかったそうです。

なぜ、塾の助手にその必要があるのかと思ったそうですが、求められているのだから仕方がない。

そこで息子が参考にしたのが、幼いころにお世話になった『おかあさんといっしょ』の歌のお兄さん。

「は~い、みんな~!歌のお兄さんだよ~!」

のノリをマネして

「は~い、みんな~!質問のお兄さんだよ~!」

の気持ちで挑んでいるとか。笑

息子「『ここ、難しいよねっ!よし、一緒に考えてみよう!!』とかやってるし。もう『なりきり質問のお兄さん』よ。フッ…。」

私、大爆笑。笑

塾の助手と一口に言っても、これはこれでなかなか大変なようです。

 

もう一つ。

年末から春休み終了までの短期バイトを始めたそうです。

理由としては、来年は部飯(1年生は1年間、部活終了後のご飯は全て奢り)の負担金が徴収されるとのこと。

2年生になると試験ラッシュとなるために定期的なバイトを増やすのは難しいので、余裕のある今のうちに少しでもお金を貯めたいそうです。

そうして応募したのが、なんと『全国展開のスーツ販売店』。

何故だか採用され、スーツを着て年末に行き始めたばかりだそうです。

これからの書き入れ時要員のようですが、詳細はまだよくわからないみたい。

こちらも何だか面白そうな話が聞けそうで楽しみです。

 

テンションアゲアゲな『質問のお兄さん』と、スーツを着てかしこまって

「いらっしゃいませ。」

とやっている両極端な息子の姿を見てみたい。笑

 

いずれにしても必要とされる振る舞いやスキルは違いますが、その場に応じて柔軟に対応できるようになることは、学校では学べない大切な学びになると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年の今頃の話⑤【共通テスト後・出願】

~昨年の今頃の話④【共通テスト後】~の続き

 

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なんとか土俵際ギリギリで踏みとどまった息子。

ボーダーラインは少し超えましたが、

河合塾の共通テストリサーチ   B判定

駿台・ベネッセのデーターネット C判定

東進の合否判定システム     C判定

一般的に母数の多い河合塾駿台・ベネッセは信憑性が高いと言われていますが、どちらしにてもなんとも微妙…。

これらのデータを元に、学校と塾での三者面談が行われました。

学校の担任と塾の担任。

双方とも言うことは同じでした。

「勝負は五分五分。受かっても驚かないし落ちても不思議ではない。」

意見をすりあわせたのですか?

と聞きたかったぐらい。笑

学校の担任は

「○○は何でも一生懸命に取り組んできたし、その努力と実行力はホントに凄いと思ってる。今まで通りに自分の力を信じて最後まで頑張れ!」

と言って下さいました。

後日、息子を中学生の頃から指導して下さった部活の顧問の先生に会った時も

「お前は本番に強いからな。それは受験でも必ず生きてくる。」

と声を掛けて下さったそうです。

息子の普段の様子を知る先生方の言葉には重みと思いが重なり合い、心強い言葉となりました。

 

医学部受験では何があっても最難関・難関医学部を志望するグループを除くと、共通テストの結果次第で合格する可能性のある医学部を探し、全国区で志望校の変更が行われるのはよくある事。

『医学部受験は情報戦』と言われることもあります。

共通テストと二次試験の配点比率・二次試験の科目の配点比率や難易度や相性等。

医学部でも二次試験に国語があるところや、理科のないところもあります。

他にも注意すべきところがあります。

 

足切り

共通テストの得点で、大学側が予め設定している基準に満たない受験生は一次選抜で落とされます。二次試験で挽回を図りたいと思っても『足切り』にかかると受験は終了となります。

また毎年必ず足切りが実施されなくても、その年の倍率次第で足切りが実施される大学もあります。

上記のような情報を精査し、出願する大学を決定します。

共通テストの基準が満たしていない場合はすぐに次を考える事ができますが、倍率次第で足切りが実施となると、各大学がHPで発表する出願数を確認しながらの駆け引きが始まります。

 

〇隔年現象

志望倍率が1年ごとに大きく上下する現象です。

共通テスト後には少しでも『合格しやすい』大学を受験しようと志望校を変更します。

その際には前年度の出願倍率も参考にします。

前年度の倍率の高い大学は『ライバルが多くて受かりにくそう』と考え、低い大学に志願者が集まります。

結果、前年は志願者数が少なかったところが増加し、多かったところは減少。

この動きが毎年繰り返され、特に医学部はその振り幅が大きくなります。

これを利用して『前年度の倍率が高いところを敢えて狙って出願する』という話を聞いたこともありますが…。

 

さて息子。

共通テストの結果がどうであれ、第一志望校に突っ込むことしか考えていませんでした。

予め第一志望校出願に必要な物は全て準備しており、出願開始後の大安には即出願。

一応、縁起を担いで大安に出願しました。笑

志望校の第一志望者動向を見たり、出願数からの駆け引きなんて関係なし。

ところが息子志望校、共通テスト後の第一志望者動向を見ると志望者が激増!

共通テストの結果から、難関校志望の一定数が安全志向となった事と隔年現象によるものだと思われました。

結果、足切りが実施されました。

ボーダーラインは超えていたので足切りにかかることはないだろうと想定していましたが、二次試験の受験票が届いた時には『これで戦える』と思い、ホッとしました。

受験番号は、なんと1桁。

これで『貴校が第一志望です』という熱意が伝わるかな。

と息子と笑い合いました。

 

以前にも書きましたが、

現役合格は絶対に無理。

世の中そんなに甘くない。

今年は来年の予行練習になれば良し。

と考えていたので、息子の思うようにやらせてきました。

ところが塾や学校の先生の

「勝負は五分五分。受かっても驚かないし落ちても不思議ではない。」

の言葉や、『駿台・ベネッセデータネット得点度数分布』で志望者全体のどの位置に付けているのか等の様々なデータを分析すると

これは、ひょっとしてないこともないかも…。

 

そう思うと、この時点で物凄い緊張感が襲ってきました。

それまでは今年は記念受験だと思い、ただ息子が最後までやり切ることだけを願っていましたが、一気に受験が現実味を帯びてきて背中がゾワゾワとしました。

息子はここから遅れていた二次試験対策に全力で取りかかりました。

私はここから落ち着かない日々を過ごすことになりました…。

 

大学によって戦い方は全く異なります。

ここから様々なデータが出てきます。

データの活用も大切なことですが、受験生が今まで目標として頑張ってきた努力やその思いも大切です。

出願についての考え方や受験に対する向き合い方には、ご家族の思いや受験生の性格も関係してくるかもしれません。

ご家族で話し合い、最終的には受験生本人にとって後悔のない受験ができることをお祈りしています。